岩井俊二 チャンオクの手紙(2017) 映画感想

岩井俊二監督『チャンオクの手紙』をYouTubeで観た。期間限定!


「チャンオクの手紙」#1_チャンオクの朝【岩井俊二監督作品】【ネスレシアター】


何か月か前に韓国のメディアからネットニュースに出ていて何撮ってるんだろうと思ってたんだけど、ネスレ提供の短編映画でした。提供とか全然関係ないくらい映画として観た。全4話で1時間くらい。



ところどころでネスレのコーヒーメーカーが出てきて、どれも自然でコーヒーメーカー欲しくなった。コーヒーを飲む場面が毎度絶妙で、コーヒー飲めないのに飲みたくなった。


話というかテーマは家族と介護。忙しい母親。だと思う。
主人公はウナ(ぺ・ドゥナ)。母親でもあり、妻でもあり、姑の義理の娘でもある。その関係も、一つの家族の中でコロコロ関係性が変わって、旦那と姑の板挟み問題もあって苦労している人物として描かれていた。家事に介護に子育てと超多忙なウナも、コーヒーを飲む時間だけはゆっくりと穏やかな時間が流れていてじんわりと心に響いた。ウナはとにかく一人の時間がない。だから忙しい人はああいうボタンを押すだけで出てくるコーヒーというのは必須なのかもしれない。特にウナはコーヒーを飲む時間だけが一人の時間なんじゃないかなぁと思った。家で温かい飲み物を飲んでいる時間って基本的に自分一人だけの時間が多くて、結構好きな時間でもある。それがこの映画にも出ていて、なんだかほっとする瞬間でもあった。


『チャンオクの手紙』では監督が去年撮った『リップヴァンクルの花嫁(2016)』との親和性もあって、連絡手段で使っていたアプリが映画にも出てきたPlanetだったり、印象的な赤いポストが出てきたりして個人的に嬉しくなるポイントだった。


韓国の家というのが日本と微妙に違うのか、チャンオクや子供たちが一人ずつの部屋を与えられているのに、両親がソファで寝ているのはびっくりした。そういうもんなのか。長女は1話の寝起きシーンがどことなく昔の蒼井優みたいな雰囲気があった気がする。


チャンオクとウナの関係って、義理の親子とは思えないほど距離が近い。嫁の立場から物怖じしないで言ったり、顔をぐりぐりしたりするの、微笑ましかった。本当に仲がいいんだなぁと。でも、介護される立場というのは介護されないとわからないし、きっとどこかプライドみたいなのも捨てきれないんだろうなぁと思った。本当の親子じゃなくて、義理の親子だからこそできることもあったのかなぁと感じる。


全体的に、”生きている人間が、ただ生活している”というのが印象的だった。食べるシーンとか、飲んでいるシーンとか、家の中で当たり前に行っているシーンみたいなの。1話なんて本当に主人公が朝を過ごすだけのシーンなのに、めちゃくちゃ染みる。あと人の生活する音。ささいなことだけど、繊細な空気感がたまらなくよかった。
自然にしているシーンばかりだからこそ、チャンオクの呼び出すエリーゼのためにの電子音が異質に聞こえた。あの音ちょっとドキッとするというか、正直言うと耳障りな音だと思う。わざとだろうか。


4話のエンディングも凄くきれいで、カーテンから差し込む光に照らされたぺ・ドゥナの横顔がめちゃくちゃ綺麗でほれぼれした。エンディング曲も不思議な余韻が広がる。音楽も監督がやっているのかー。そうかー。




チャンオクが亡くなってから手紙を読んだ家族の変わりようで、手紙がどれほどの効果があったんだろうとふと考えた。多分手紙はきっかけに過ぎなかったんじゃないかなぁと思う。ウナが忙しいのも本当はみんな全部わかっていたけど、見て見ぬふりをして過ごしていたんだろうなぁ、と。それもチャンオクはわかっていたけど、素直じゃないから言えずにいたし、態度でも示すことができなかった。のかなぁ。


カイトを飛ばすシーン、めちゃくちゃ良かった。どうしても監督の映画でカイトを飛ばすとなると『リリイ・シュシュのすべて』を思い出す。あの映画も僕にとって、カイトシーンは一種の山場だった。下から上を見上げるシーンでもあるし、しがらみから解き放たれてこの世の悪いものすべて忘れてカイトに夢を乗せているような感覚。でも『チャンオクの手紙』でのカイトシーンはそれとは違う。ばらばらになっていた家族が一つのものを見上げて再スタートするみたいな希望。カイトを揚げるシーンで泣けた。そして手紙で大きく変わったこと自体も、『Love Letter』みたいだ。なんだか過去作品のオマージュというか、いいとこどりみたいな。脚本家の愛を感じる。


監督への感想ツイートも凄く素敵なのがたくさんあって、こういう見方もあるのかぁと感心しながらいくつか見た。湿気が伝わってくると監督に伝えている人がいて、凄く素敵な感想だと思った。大塚愛の感想もすごく良かった。




「チャンオクの手紙」#2_チャンオクの夜【岩井俊二監督作品】【ネスレシアター】

「チャンオクの手紙」#3_チャンオクの娘【岩井俊二監督作品】【ネスレシアター】

「チャンオクの手紙」#4_チャンオクの凧と手紙【岩井俊二監督作品】【ネスレシアター】


3話のサムネ、岩井監督に見えがち

映画面白すぎだろ期

映画面白すぎだろ期に突入した。


なんかわかんないけど、最近映画が面白くてしょうがない、みたいな期間に入って暇さえあれば映画を観てる。前までは完全に家派だったけど、映画館の良さがわかってきて映画館で観たい。けど金がない。

ちょっと前までは、海外ドラマ面白すぎだろ期に入って休みの日は一日中頭を空っぽにしてテレビの前にいた。
そんなんだから、休みの日に何も予定がないとすごく楽しい。というか、予定があると自分の時間を邪魔されたみたいに感じるようになって完全に人として末期なんじゃないかと不安になる。着実にオタクへの道を極めている。


映画とか海外ドラマ以外にも、アニメ面白すぎ期とか、YouTube面白すぎ期とかなんかそういう期間があった。
その期間に他のはあんまり頭にはいってこない。というか集中力が切れて他のことやってしまう。
ブログ書くの楽しすぎ期もあったけど、ブログは基本的に何かを観てから感想を書くことが多かったから、他の期間と併発してた。今はブログ書くの楽しすぎ期でもないけど、感想を後から読むために下書きにためてる。下書きにどばっと書いてるだけだから、支離滅裂。本当は全部の映画やドラマの感想を書きたいけど、そうすると書いてからじゃないと次に進めないような気がして、自分に響くものがなかったら潔く書かないことにしてる。


こういうサイクルが出来上がってからブームがかわりばんこに来るんだけど、何なんだろってなる。
とりあえず、全部Netflixのせいだってことにしてる。Netflixのマイリストに観たいもんぶちこんで、いつか消費しようとしてるけど、マイリスにいれたとたんに観る気がなくなる。
私の人生は観たい映画と読みたい本を消費するだけで終わるはずなのに、なんでかこうも意欲がそがれる。
それでしばらくたったら「うわあ観ないともったいな~い!」となってどかっと一気に観てる。


本当は一年中映画を見てたり海外ドラマをおっかけたり、何かに一貫してる生活に凄く憧れる。
一貫してるだけで安定するというか、趣味が安定してるのってすごく生きる活力になるなぁと思う。

趣味に生きれば生きるほど、殻に閉じこもって他人を排除しても強く生きていけるような気がしてならなくなってきて、将来が不安になっちゃうよー。たすけてー!

森見登美彦と道の人

森見登美彦の小説を何冊か読んだ。読むようになったきっかけは僕がアニメ監督の湯浅政明という人のファンで「夜は短し歩けよ乙女」という森見の小説が再び湯浅監督でアニメ化されることを知ったため。以前「四畳半神話体系」でも湯浅監督が森見登美彦の小説をアニメにしていたので一応アニメも小説もチェックしたのだけど、その時はあまりにもサブカル臭がして諦めた。自分がサブカルかサブカルじゃないかはおいといて、肌に合わないというのを全力で感じた。そこで序盤の方で諦めてしまって、その時に森見登美彦の小説は自分と相性が悪いのだと決めつけていた。でもやっぱり気になるというのが人間というもので、MXで再放送しているのを録画してちょっとずつ消費している。それに伴って、本棚に積んであった「四畳半神話体系」を引っ張り出してもう一度最初から読んだ。何だか昔読んだ時と違ってスラスラ読めた。不思議だったけどそういうのはよくあることだ。自分のコンディションで入ってくるものと拒むものも変わってくるみたいな。それでアニメも結構すんなりと受け入れた。面白いのかは微妙だけど、なんか普段見るアニメとは全然違うからぼーっと頭を動かさないで受動的に見てる。


それで森見の小説をいろいろと読み漁った。と言っても四冊くらいだけど。なんか全部同じ人が書いているのがよくわかるし、全部似てるといえば似ている。肝心の「夜は短し歩けよ乙女」はまだ読んでいない。映画を待とうと思う。


それで、たった四冊読んだだけで森見登美彦のことをわかったつもりは全然ないけど、森見登美彦は道の人なのだと思った。道の人っていう言葉は以前マツコが定義していた。道について永遠に話していられる人、とか道に詳しい、とかうまく言えないけどそういう人。普段歩いている道を気にしているか否かというのも道の人の定義に関わってくる。それで、マツコやタモリなんかはきっと道の人なのだ。その時テレビで共演していた有吉は道の人ではなかった。そして僕も道の人ではない。その時はそういう風に思っていた。


そして森見の小説である。彼の小説はまさに道の人による道の人のための小説である。道の人というのはこういう風に空間を把握しているのか、と自分とは物の見方がまるで違うことに少し戸惑いを覚えた。最初読むのを拒んだのは多分そういうのが理解できなかったからだと思う。その道の人の思考は僕とまるっきり違ってもはや未知の人のようであった()。京都の街並みを道を使って表現している。僕は京都に詳しくない上に、空間把握能力が欠如しているので彼の言う道を想像することはたやすくない。森見との相性の悪さというのはそういうところにあるのかもしれない。だが、「四畳半神話大系」を読んだ際は道を知らずともすらすら頭に入ってきた。なぜだろう。道の人というのを受け入れたからかもしれないし、アニメを少しだけみたからかもしれない。森見との相性は悪くとも、嫌いではない。多分ちょっと好き。